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アートが好きで美術館とか良く行くのでそういったアート情報などをアップしていきたいと思います。
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美の巨人たち「尾形光琳」特集アート日記
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今週の美の巨人たちは、尾形光琳の"松島図屏風"が今日の作品です。

現在この作品は米国ボストン美術館に所蔵されています。縦1メートル

50センチ、横3メートル67センチという大きさです。大胆にして

緻密、絢爛豪華な六曲一隻の作品です。

彼は江戸中期京都で一躍人気を博した琳派を代表する絵師です。琳派

とは桃山から江戸時代にかけてまったく違い時代を生き、会っても

いない者同士がその技法、精神を継承した奇跡の系譜です。その発端は

桃山から江戸時代に京都で活躍した俵屋宗達です。宗達はデザイン感覚

のある作品を生み出しました。その80年後の元禄時代に光琳が宗達ら

を継承し意匠美を完成させたのでした。そして更に100年を経て酒井

抱一が江戸琳派を開きます。これがおおよその琳派の流です。ところ

が琳派は江戸幕府の衰退とともに忘れ去られたのでした。

杜若の美しさを大胆に描いた作品が"国宝 杜若図屏風"です。尾形

光琳の作品です。繰り返す同じ図柄のリズミカルな配置と金箔の持つ

強さが相まって単純明快でありながら深い画面が広がっています。

今日の作品はその後10年ほどで描かれた作品で円熟期に入った光琳

の力量がいかんなく発揮されています。

京都の呉服商雁金屋の息子として生まれ放蕩三昧の日々を送り破たんし

30過ぎてから絵の道に進んだのでした。最初狩野派に入りましたが

それでは飽き足らず独学の道へ行きました。気に入った作品は俵屋宗達

の作品でした。そして絵師を目指してからわずか10年で優れた絵師の

称号である法橋を与えられ京都西本願寺から注文を受けることになった

のでした。それが"国宝 杜若図屏風"です。ここから死ぬまでの10

年あまりで代表となる作品を次々と手掛けました。その中の1つが今日

の作品でした。

俵屋宗達の"風神雷神図屏風"はそれまで千手観音の守り神として

扱われていたモチーフを独立させ図案化したものです。その後琳派の

画家達によって次々と模写されていきます。1つのモチーフで鮮烈な

印象を与える手法は琳派の伝統とも言えます。大阪堺の祥雲寺には江戸

時代初期に沢庵和尚が創建したものです。こちらに明治の初めまで

俵屋宗達の松島を描いた屏風絵があったのでした。光琳はこの屏風絵を

観て今日の作品を描いたのでした。宗達の屏風は2隻の屏風でしたが

光琳は独自の構図で右隻だけを描き6隻としました。描き方も宗達に

倣って金泥を使い、宗達よりも墨で濃厚に線を描くことで大きくくっき

りとした姿になりました。比べると光琳の波は躍動感にあふれています。

一方で島はデフォルメされたような単純でいてごつごつとした表現で

描かれています。光琳のほうがどっしりと目立ちます。波はまるで上空

から眺めているように埋め尽くしています。一方島は真正面からとらえ

ていてどっしりと描かれています。つまり1つの画面で二つの視点が

同居しています。これが光琳の作品がより魅力的に見える理由です。

19世紀末にヨーロッパでセザンヌがやったことを18世紀の初めの

日本でやっていたのでした。これは美術史上凄いことですよね。

日本三景と呼ばれる松島ですが今日の作品はこの松島を描いたものでは

無いかも知れないそうです。堺の豪商である谷正安が海岸の号を授かった

時に依頼したのが宗達の松島の絵で古来海に島、砂浜に松を描いた絵は

祝い事を表す時に使われていました。宗達は伝統的な絵を描いていたの

でした。また宗達の屏風は荒磯屏風と呼ばれていた説もあるそうです。

荒磯とは古くから荒磯文様として知られたモチーフでした。

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アート日記
# by artmark | 2012-05-20 14:20 | アート情報 | Trackback | Comments(0)
日曜美術館「村上華岳」特集アート日記
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先週の日曜美術館は、大正から昭和にかけて独自の仏画を追い求めた

村上華岳の特集でした。

彼は京都で青年時代を過ごしましたが、八坂神社に向かう四条通に彼の

作品のコレクションを誇る何必館・京都現代美術館があります。ここで

今彼の企画展が開催されています。こちらからの放送でした。

"文殊"は昭和11年48歳の頃の作品です。知恵の仏と呼ばれる文殊

菩薩を描いています。何故か右手を上げて二の腕はあらわになり艶めか

しい雰囲気です。経典を持つはずの左手には小さな花が一輪。情緒あふ

れる趣です。同じ年に描いた"十一面観音"はほおがうっすら赤くなって

います。また頭上の小さな観音様はどれもまどろむような表情です。

さらに首から下はもやに包まれたように空白になっています。見る人が

想いを馳せるためにあえて描かなかったとも言われています。

彼が絵を描いているのは芸術ということではなく、世界の本体を掴み

宇宙の真諦に達するための修業だと考えていたそうです。深い考え方

ですね。本当に関心します。

明治21年に彼は大阪で生まれました。貧しい家庭に生まれ育ったそう

です。7歳で神戸に移り住みました。貧しい親の下では学校にも行けない

と叔母の家に預けられたのでした。港に近い花隅町で神戸随一の花街だ

ったそうです。叔母の家はこの地域一帯の地主だったそうで貧しさとは

無縁の生活を送るようになったのでした。しかし実の父が亡くなり、母

も他の家に嫁いだのでした。両親の愛情に触れられない寂しさをずっと

胸に秘めていたそうです。15歳で画家になるのが夢だった彼は京都の

美術学校で学び始めました。卒業間もない25歳の時の作品が"夜桜之図"

です。京都平野神社の桜の宴を描いています。この中に出てくる女性は皆

無表情で描かれています。彼は女性への崇拝者とも呼ばれているそうで

やはり母親と7歳で別れて以降会えなかったことが影響しているのでしょ

うか。母親を求める少年の想いがやがて神戸の花街のおしろいの匂いのする

女性へのあこがれに変わったのかも知れませんね。

大正7年30歳で彼は後に京都画壇を担う画家達と新しい日本画の創造を

目指す国画創作協会を設立し切磋琢磨する日々が始まりました。そして生ま

れたのが大きな転機となった"裸婦図"を発表しました。薄布から透けて見

えるつややかで豊満な肉体。あふれんばかりの官能性をたたえながらどこか

仏のような清らかさも同居しています。目に観音や菩薩の聖性さを表すと

ともに乳房にもそれを表したかったのだそうです。そしてこの絵をきっかけ

に生身の女性を描くことを止めたそうです。

国画創作協会で新しい日本画を探究していた彼は仏画を描く一方で西洋画の

技法にも精力的に取り組んだそうです。"鱸"はとても写実的に描かれていま

す。鍛練を重ね高い技術を身に着けていたことがわかります。

大正10年に国画創作協会のメンバーは最先端の西洋画を学ぶためにヨーロッ

パに向かいました。しかし彼はたびたび喘息の発作に襲われたため渡航する

ことが出来ませんでした。そして彼は静養のために神戸に戻りました。六甲山

を眺めながらいつかはこの山に住みたいと考えていたそうです。自己を捨てて

再び世間に帰らなくても良いという決心をしたのだそうです。

そして山を描き始めました。"梅柳の山"は薄墨で描いていますがただ静か

に心に写った風景と向き合って描いています。"武庫山春雲"は自然の息遣

いに身を任せて描いています。病を抱えながらも吸い寄せられるように山に

向かったそうです。彼の描く山はどんどんその形が崩れ妖気を漂わせるように

なっていきました。

"太子樹下禅那"は彼の最晩年の作品で木の下で座禅を組む釈迦を描いています。

晩年のアトリエの写真が紹介されましたが多くの絵が飾られていて納得がいか

ないと加筆していたそうです。一方で喘息は悪化していったそうです。死と

隣り合わせの日々。そんな中で描いたのが"不動尊"です。左手には悪を締め

る縄、右手には剣が描かれています。死の恐怖に打ち勝とうとしたのでしょうか。

その一方で牡丹を描くようになりました。若い頃から仏画や山水画と同じように

興味があるテーマでした。"牡丹遊蝶図"は30代の頃に描いたもので艶やかに

描かれています。"墨牡丹之図"は晩年の牡丹ですが墨一色で忍び寄る死を予感

しているような印象を受けます。

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# by artmark | 2012-05-19 18:32 | アート情報 | Trackback | Comments(0)
美の巨人たち「ポール・セザンヌ」特集アート日記
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先週の美の巨人たちは、先日の日曜美術館と同様ポール・セザンヌ

の特集でした。そして今日の作品は"サント・ヴィクトワール山"

です。この作品は、米国ワシントンD.C.のフィリップス・コレ

クションにあります。山の稜線に沿って松の木の枝が描かれていま

す。水平のアーチ橋が画面を横切り、斜めに伸びた道が視線を山

に導きます。そして何より2本の松の木は画面に安定感を持たせ

ています。色彩は抑え気味で松の木のリアリティに比べ風景はどこ

か抽象的に描かれています。

彼は後期印象派の巨匠です。故郷エクス=アン=プロヴァンスで法律

を学んでいましたが絵を志し20代でパリに出てドラクロワ、クール

ベ、マネの影響を受けました。彼は30歳を過ぎた頃ピサロと出会い

師と仰ぐようになり、1874年に第一回印象派展に参加しましたが

酷評され絵は全くと言って良いほど売れませんでした。そんな中画家

になることを反対していた彼の父親が亡くなったそうです。彼は莫大

な遺産を受け継ぎ地元に戻ったのでした。

そして取りつかれたように描いたのがサント・ヴィクトワール山です。

彼は印象派以降山に興味を持った唯一の画家でした。山を描くことは

大との対話の繰り返しだったのだそうです。

彼の通ったブルボン中学では1年下に小説家になったエミール・ゾラ

がいました。パリから転向してきたばかりで慣れずいじめにあっていた

ゾラを彼は身体をはって助けたそうです。助けてもらったお礼にゾラ

からりんごをもらい、それ以来彼にとってりんごは重要なモチーフだ

ったそうです。そしてゾラとは良く一緒に登ったサント・ヴィクトワ

ール山も良き想い出として残っていたのでした。一度はゾラに誘われて

パリに行き印象派にも参加しましたがそのうち移ろいゆく瞬間にこだ

わり続ける印象派の技法に疑問を持つようになったのでした。そして

47歳の時に父親が亡くなり莫大な遺産を手にするとこれまでの貧困

の生活から解き放たれ地元で自然に囲まれてひたすら絵に没頭したの

でした。その最初の挑戦がサント・ヴィクトワール山だったのです。

彼はこの絵で絵画の常識を打ち破ろうとしていました。ルネサンス以降

18世紀中頃までの絵画は古典にのっとった写実的な描き方が主流でし

た。絵具はパレットで混ぜて作りました。18世紀後半に生まれた印象

派ではそれを変えてキャンバスに直接原色をのせていき見る人の眼の中

で色を混ぜようとしたのでした。彼はそこに疑問を持ち新しい方法を

模索したのでした。彼は地面を緑と茶で区分けし、山も青い面の重なり

で表現しています。それはキュビズムのような表現です。構図も山は

正面から、麓は上空からと異なる視点を組み合わせて描いています。

彼は20世紀絵画の先駆けとなったのでした。彼はみたままを描くのでは

なく見たものから感じたものを描いたのでした。自然は平面よりも深さ

において存在する、そのために赤と黄で示される光の振動の中に空気を

感じさせる青系統を入れる必要があると語っています。この絵を機に

取りつかれたように山を描き続けたのでした。山の姿は次第に変容し、

風景は分解された色の中に溶け込んでいきました。そして季節や時間

など問題じゃなくなっていきます。サント・ヴィクトワール山の存在

のみが表現されるのでした。

サント・ヴィクトワール山を好きになったのは中学の時で親友のゾラと

毎日登っていたからでした。ゾラとの友情そのものだったそうです。

しかしゾラが書いた小説「制作」が彼を激怒させたのでした。主人公は

理想の絵をひたすら追求するが行き詰まり自殺するという内容でした。

そのモデルが自分だと確信した彼は裏切られた気持ちになったのでした。

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# by artmark | 2012-05-19 18:30 | アート情報 | Trackback | Comments(0)
日曜美術館「ボストン美術館展」特集アート日記
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今週の日曜美術館はちょうど上野の国立博物館で開催しているボストン美術館の

企画展示の紹介でした。日本にあれば国宝間違いないという作品ばかりでした。

ボストン美術館は米国マサチューセッツ州にあり140年の歴史を持ちます。

収蔵点数はおよそ45万点で印象派のコレクションでは世界で名を知られていま

す。もう1つの自慢が日本美術のコレクションです。その数10万点以上という

ことで海外では最高の質と量を誇るそうです。今来日しているのはその中でも

選りすぐりの名品ばかり90点です。

最初に紹介されたのが曽我蕭白の"雲龍図"です。この作品は蕭白の現存する

作品の中で最大で横11メートルで8枚の襖に描かれています修復後初めて

公開されました。この絵には既成の表現に飽き足らず唯一無二の表現を求めた

彼ならではの描写があふれています。

次に紹介されたのが蕭白の"商山四皓図屏風"です。現存している彼の最高傑作

と呼ばれる一品です。大きな松の幹の下で憩うのは仙人です。衣は常識破りの

太い線で一気に描かれています。表情は落書きのような無造作な表情です。

京都で生まれた彼は鬼神と名乗り現在の三重や兵庫を放浪し作品を残したそうで

す。あまりにも大胆な表現は品格が劣り邪道だとされ明治の初めには忘れ去ら

れていました。彼の作品が何故ボストンに渡ったのでしょうか?彼に惹かれた

アメリカ人がいたからでした。その名はアーネスト・フェノロサです。今週の

美の巨人たちにも出てきましたね。ハーバード大学で哲学を学び、明治11年に

25歳で来日し東京大学の教授に就任しました。お雇い外国人として今の給料

で月に300万円程度もらって豊かな暮らしをしていたそうです。来日直後

から近所の骨董品屋に通うようになり、そこで日本の美術と出会ったのでした。

彼が最も愛したのが狩野元信"白衣観音図"でした。室町時代に生まれた狩野派

2代目の元信の作品です。西洋画とは異なる目に見えないものを表現する精神性

に惹かれたそうです。そして研究と収集にのめりこんでいきました。当時明治

政府が神道を国の宗教としようとする中で仏教は悪しきものとする廃仏毀釈が

起こりました。仏像は破壊され寺の美術品は二束三文で売られたそうです。この

事態に憤り、国による保護を訴えました。そして明治13年には美術品の調査団

を結成し9年に渡り関西の寺社を周り仏像から琳派の絵まで様々な魅力を発見

しました。彼はこの作品をこうした動きの中で手に入れたのでしょう。そして

"雲龍図"はフェノロサと行動を共にしたもう1人のアメリカ人が手に入れました。

ウイリアム・スタージス・ピゲローは資産家で明治15年に来日し日本文化に心

酔し近代化が進む中軽視されていた日本美術4万点以上を購入したそうです。

蕭白の作品は近年流行っている壁などに描かれるアートグラフティに似ていると

紹介されました。線を太く描き、立体的なところが大変似ていて従来の日本画と

は異なるそうです。外国人だからこそ純粋な目で見れたのかも知れませんね。

次に紹介されたのが"平治物語絵巻 三条殿夜討巻"です。源平の争いの幕開け

となった京都での争いを7メートルにわたって描いた作品です。血生臭い状況を

ドキュメンタリーのように描いた合戦絵巻の最高峰です。

次に紹介されたのが"吉備大臣入唐絵巻"です。遣唐使の唐での活躍を描いた絵巻

です。吉備が唐の役人に連行されるところから始まります。超能力と知恵を使って

唐の役員を打ち負かす痛快な娯楽絵巻です。誰が描いたのかわからなかったので

すが最近の研究で日本美術でも稀な表現力を持つ画家が描いたとされています。

顔の表情やポーズ、構図、バランスなどがとても才能にあふれているそうです。

この作品の作者を考える上で参考になるのが"伴大納言絵巻"です。同じ平安時代

後期に描かれました。後白河法王に仕えた宮廷絵師の一人常磐光長が描いたそうで

す。2つの絵巻には似たような表現がいくつもあり"吉備大臣入唐絵巻"が同じ

作者が描いたのではないかと考えられています。ボストン美術館の調査では、

身分の高い人と低い人で顔料を変えて描かれていたそうで驚きですね。

次に紹介されたのが伊藤若冲の"鸚鵡図"です。白一色で身体を描いていてすごく

ふわふわした感触が表現されています。

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# by artmark | 2012-05-06 21:11 | アート情報 | Trackback | Comments(0)
美の巨人たち「橋本雅邦」特集アート日記
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アメリカミズーリ州のセントルイスで1904年に20世紀最初の万国博覧会が

開催されました。世界中から国家を代表する文化と芸術が集まりました。その中で

脚光を浴びた日本人画家がいました。彼の絵が欧米の絵を押さえて最高賞に輝いた

のでした。その画家は日本画の重鎮で日本画四天王(横山大観、下村観山、菱田春

草、西郷孤月)を育てました。特に目をかけていた横山大観は文化勲章第一号と

なったのでした。

その画家の絵は今静岡市駿府博物館にあります。橋本雅邦作"林間残照図"です。

これが今日の作品です。一見ぼんやりとした淡い色調の風景ですが細部に画家の

気迫が潜んでいます。描かれているのは黄昏時で小さな川の流れる深山です。

うっそうとした木々の間にのぞく流れは狩野派の流れを受けている見事な描写です。

一方森は奥に行くほどもやがかかり薄くなっています。これは西洋画の遠近法です。

上半分を占める広い空には薄く金が塗られています。

彼は日本画を近代芸術の域まで導いた画家です。東京美術学校初代教授、帝室

技芸員第一号など当代超一流の人物で明治の変革の中で枯れかけた日本の絵画に

新たな花を咲かせたのでした。

室町から江戸時代にかけて400年もの間日本の画壇の主流にいたのは時の

権力者に愛された狩野派でした。繊細にして豪華絢爛。何代にも渡って伝えられた

圧倒的な筆力は他の追随を許さぬものでした。彼は狩野派の正統を受け継ぎました。

しかしその伝統を打ち破ったのも彼でした。今日の作品は一見すると日本の山水画

のような趣を感じます。しかしこの作品は日本の伝統絵画の枠を大きく飛び越えて

いました。

奥に行くほどかすんで見える部分は西洋画の空気遠近法を使っています。伝統を受け

継ぐ狩野派の画家が何故描くことが出来たのでしょうか?

彼は江戸時代天保6年御用絵師の家に生まれました。7歳の頃から絵の手ほどきを

受け11歳で狩野派に入門。御用絵師の道を歩み始めたのでした。彼と同じ頃入門

したのが6歳年上の狩野芳崖でした。激しい気性の芳崖と穏やか彼は互いに切磋

琢磨し高め合いました。当時粉本という手本を模写することが修業でした。正確に

模写することが目標でオリジナリティや想像力は必要ないものでした。彼は粉本に

飽き足らず雪舟や雪村、更に中国南宋や元の画家といった狩野派の原点とも呼べる絵

を研究したのでした。

明治に入ると政府の欧化政策で西洋画一辺倒になりました。工部美術学校が出来て西洋

画を教え始めたのでした。その学校でアーネスト・F・フェノロサが西洋画に対し日本

画という言葉を考えたそうです。彼は仕事が無くなり、輸出用の帯に絵を描くなど辛酸を

なめていました。36歳で海軍兵学校製図係となったのですがそこで油絵に出会ったの

でした。ここから遠近法や西洋画の彩色を学んだのでした。その傍ら1885年から自作

の絵を評論しまう鑑画会に参加したのでした。その主催者こそフェノロサと岡倉天心

だったのでした。二人は日本の美術を再評価し新たな日本の絵画を生み出すために人材を

探していたのでした。

彼は狩野派の技術と西洋画の遠近法、色彩を組み合わせて新しい日本画を作ろうと模索

しました。明治22年に東京美術学校で教え始めた頃、内国絵画博覧会で一等をとった

"白雲紅樹"では岩肌は狩野派の表現をしながらもその上は西洋画の奥行を表現して

います。後の日本画四天王達は彼の試行錯誤を見て新しい日本画の創造へと向かったの

でした。そんな中美術学校の旧態依然とした教授とぶつかり岡倉天心らとともに学校を

飛出し1898年日本美術院を設立しました。より過激に新しい日本画を目指します。

その時天心が唱えたのは線を用いずに油絵のように色で日本画を描くことでした。彼ら

は輪郭線なく淡い色で描き世間はそれを朦朧体と批判したのでした。彼らの絵は売れず

日本美術院は困窮しました。そんな状況に彼は危機感を覚えました。そして彼らの師と

して筆力を失わないように、形を満足するためにべたべたに塗り勢いが無くなると

語ったのでした。

その頃彼の元に政府からセントルイズ万博への出品の依頼がありました。それが日本画を

世界に認めさせるチャンスでもあり、また後輩に道筋を示すものでもありました。

今日の作品ですが木立は狩野派が好んで描いた大きな枝ではなく、フランスのバルビゾン

派のような自然に近い木立を描いています。そこに彼の工夫がありました。墨を薄く塗

った上に濃さの違う墨を点々と置くことで独特の奥行が生まれます。木立の周りが薄く

滲んでまるで木々が残照に照らされて浮かび上がるように見えます。そこに見え隠れする

ように枝を描くことで木々が浮かび上がっています。森と対照的なのが山肌と川です。

狩野派の手法で線で描いています。ごつごつとした質感やどっしりとした存在感を伝統的

な線で表現したのでした。彼は朦朧体一辺倒でない新しい日本画を示したのでした。

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# by artmark | 2012-05-06 21:08 | アート情報 | Trackback | Comments(0)
日曜美術館「常田健」特集アート日記
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今週の日曜美術館は津軽で自らも農業をしながら農民の生活を描いた常田健

の特集でした。

彼は1910年に代々続く農家の長男として生まれました。幼い頃から絵を

描くのが大好きで周りの誰もが認めたほどの腕前でした。18歳で画家になる

ために父親の反対を押し切って上京します。川端画学校において本格的に絵を

学び始めました。その後20歳で貧しい労働者や農民のために戦う姿勢に共感

しプロレタリア美術家同盟研究所に参加しました。当時芸術も革命の手段と

考えられていたのでした。しかしそうした活動に次第に違和感を覚えるように

なりました。その頃描いた絵が"稲運び"です。絵を描こうとすると頭に浮か

ぶのは幼い頃過ごした津軽の風景でした。そして20代半ばで津軽に戻ります。

農家の長男として農家の仕事を始めたのでした。そして農作業の合間をぬって

スケッチをしました。農夫達の何気ない姿を見て二三日でスケッチブックを

使ってしまうほど熱中したそうです。

"稲まき"ではいきいきと農夫が種を蒔いています。絵具を厚く塗り重ねた

腕にグローブような手。地面を見つめただひたすらに種を蒔いています。

"田植え"では女達が田植えをしている様子を描いています。中腰のまま朝から

日暮れまで苗を植え続けます。"母子"では農作業の傍ら赤ん坊を抱きかかえる

様子を描いています。彼は農民の何気ない風景を絵にしていきました。

彼はこの姿勢を生涯貫き続けました。89歳で亡くなる直前に農民を描き続け

る理由について自分で農民をやって自分の主題が決まった、農民の本当の形は

なかみでそれを引き出して描くことが大事だと語っています。どうすれば農民

の本質が描けるのか。亡くなる直前まで農作業をしながら考え描くという生活

をしていたそうです。

"集会"という作品があります。農民達が集まって議論している様子です。戦中

農作物をおさめる制度があったり、戦後はりんごの価格の暴落、そして減反など

つましい生活を守るために答えの出ない議論を交わしていました。彼は人々が

直面する厳しい現実に目を向けたのでした。青森県東部の三沢基地では戦闘機が

人々が暮らす街や村の上を飛びその爆音が社会問題となりました。"ジェット機

の下"ではそんな問題と向き合って描きました。1960年代後半に六ヶ所村を

中心に大規模な石油科学コンビナートの開発計画が持ち上がりました。これに対

し大規模な住民の反対運動が起こりました。これについても"土地を守る"を

描いています。

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美の巨人たち「棟方志功」特集アート日記
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今週の美の巨人たちは、版画家棟方志功の特集でした。そして今日の作品は、

"富嶽頌"でした。この作品は六曲一双の屏風に26枚の版画が貼られてい

ます。その1枚は"赤富士の柵"です。その麓は海なのか森なのかうねる

ようなエネルギーが渦巻いています。"春の柵"は白い富士を背景につがい

の鳥が描かれています。待ちわびた雛達に餌を運んでいます。"王将のよう

にの柵"は圧倒的な存在感です。"大王龍の柵"は富士の上空で龍が暴れて

います。"黒い三巓からの柵"では女性達が描かれていますが富士山の形を

しています。ユニークですね。その他落款だけのものや縁取りだけのものも

あります。"黒むらさきの柵"は詩が刻まれています。"青銅の富士の柵"

も詩が刻まれています。書いたのは草野心平で現代詩のリーダー的存在でし

た。彼とは東北出身で同じ歳だったそうです。

彼は自身の作品の節目で詩を作品にしてきました。昭和11年33歳の時に

"大和し美し"で版画家として頭角を現すようになりました。これはヤマト

タケルノミコトを主人公とした佐藤一英の詩を版画にしたもので大変力強い

作品です。この作品で1枚の版画ではなく、何枚も綴りそれが物語をなして

いくという新しい境地を切り開いたそうです。

彼は様々な富士山の作品を描いています。"南秋津の柵"は東京東村山で

詩人草野心平が暮らしたところです。富士が雑木林の向こうから皆の暮らし

を見守っています。"天地氤うんの柵"は東京国立市から見た富士山です。

彼には師匠はいません。強いていうならば津軽のねぶたと凧絵です。彼は

師匠についてたら師匠以上のものは作れないと語っています。

18歳の時に文芸誌「白樺」でゴッホを観てから彼はゴッホを目指すことに

なります。そのため最初油絵を始めたのでした。21歳で上京し画家修業を

開始します。帝展に何度も出品しますがほとんど落選という状況でした。

彼は眼が悪く、更に正規の教育を受けていないからデッサン力がないと言わ

れたそうです。そんな時にゴッホの"タンギー親父の肖像"という作品を

観てそこにゴッホが模写した浮世絵が描かれていて日本の版画こそが自分の

進む道を決めたそうです。

浮世絵のマネはしないが日本ならではの版画を生み出そうと強烈な個性で作品

を描き始めました。そして昭和27年スイスの国際版画展で最優秀賞を受賞

すると次々と国際的な賞を受賞し世界の棟方と言われるようになりました。

そして"富嶽頌"に取り組んだのは69歳の時でした。

棟方志功には"富嶽頌"以外でも富士山の版画があります。これも草野心平

の詩を勝手に版画にしたのでした。そしてその9年後に再び草野心平の詩を

版画にしました。それが"富嶽頌"の始まりでした。

草野心平にとっての富士山は活火山だったそうです。生命そのものでした。

そのエネルギーを芸術として昇華させたのでした。この二人は縄文的で刻々

と生まれてくる自然に対し畏敬の念があって共感したのだそうです。"富嶽

頌"を描いた頃彼は左目の視力を失い、一方草野心平は右目の視力を失って

いたそうです。草野心平は二人で一人と語っていたそうです。

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日曜美術館「ポール・セザンヌ」特集アート日記
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先週の日曜美術館は、19世紀フランスの画家ポール・セザンヌの特集

でした。

ちょうど今セザンヌの企画展を国立新美術館で開催していてこちらから

の放送でした。

まず最初に紹介された作品は"りんごとオレンジ"です。彼の最高傑作

です。長椅子に投げ出されたような白い布、その上に器や果物が無造作

に置かれています。ずしりと重みを感じさせる白い器にみずみずしい

オレンジ。りんごも思わず手に取りたくなるほど確かな存在感です。

しかしこの絵どこか変ですね。彼にとってりんごの静物画は生涯に渡っ

て探究した重要なモチーフでした。良くこの絵を見ると画面の重心が

ななめに傾いています。本来ならばりんごや皿など全てが転げ落ちて

しまうはずです。ところがこんな不安定な空間にりんごがしっかり置か

れています。彼は絵画にしか出来ないやり方でりんごの存在を永遠に

留めようとしたのです。彼はりんごでパリをあっと言わせたいと語って

いたのだそうです。

番組ではセザンヌと同じモチーフを使って狙いを解説しました。

比較した作品は"台所のテーブル"です。この絵もテーブルの上に白い

布が敷いてあります。そしてそこに大きな壺やポット、りんごや洋ナシが

置かれています。実は"りんごとオレンジ"よりも更に複雑な仕掛けが

あります。まず絵と同じになるように物を1つ1つ配置していきます。

そして絵と同じ目線から写真を撮りました。全てが違う方向から見たよう

に描かれています。絵と同じようになるように写真を撮ったのですが

少なくとも7つの視点を組み合わせています。人は動画のように様々な

角度から見るようにします。彼はそんな風にして見た映像を1枚の絵とし

て描いたのでした。画家というのは物の1面だけを描くのではなく、あら

ゆる視点で対象をとらえるという使命を背負っていると語ったそうです。

この表現はピカソにも影響を与えています。ピカソはセザンヌは唯一の

自分の先生と語ったそうです。キュビズムはここから生まれたんですね。

彼は1839年に南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれまし

た。父親は銀行家で何不自由ない環境で育ちました。強情でちょっと偏屈

な少年でしたが、好きな事には夢中になるタイプだったそうです。父親は

銀行家や役人の道に進ませようとしましたが、彼は画家になる夢を捨てら

れませんでした。23歳でパリに出て本格的に画家を目指します。初期の

作品が"殺害"です。男と女が共謀して殺害を犯す場面を描いています。

最初は暗い色調で重苦しい絵を数多く描いていました。サロンに出品して

も10年以上落選する日々が続いており挫折と孤独を味わったそうです。

転機となったのはピサロと始めとする印象派の画家達との出会いでした。

次に紹介されたのが印象派時代の代表作"首吊りの家"です。パリ郊外の

田園地帯を描いた風景です。これまでの暗い色調から解放され自然の息吹

を力強く描いています。明るい色彩に目覚めた彼は"赤いひじ掛け椅子の

セザンヌ夫人"を描きました。妻をモチーフに新たな表現として数十枚を

描いたのでした。洋服には淡い緑や黄色、青が使われています。一方で

椅子には鮮やかな赤など色を大胆に配置して色彩が響きあう効果を模索して

います。それにしても不思議なのは妻の顔です。影は緑色で仮面のように

無表情です。彼が描く人のほとんどは無表情です。彼は自然のあらゆる姿

を丸や球でとらえ単純化して表現したいと語っていたそうです。妻を描き

ながらひたすら色と形の効果を探究していたそうです。

彼が大好きで30枚以上も買い付けた画商の長谷川徳七さんが紹介され

ました。彼が買った作品の中から1枚"座る農夫"紹介されました。肖像画

の傑作です。茶色いトーンの中にときどき白い部分がありますがここは

色を塗らず下地が見えています。通常油絵だと全てを塗るのですが、顔や

背景にもうっすらと白い部分が残っています。

パリで画家を目指して30年経ち印象派と出会い新しい世界が開けたかに

見えましたが、40歳を過ぎてもまったく認められませんでした。そこで

彼はパリを離れプロヴァンスに戻ります。そこで新たなモチーフとして

サント=ヴィクトワール山に出会ったのでした。少年時代から心に焼き付

いていた風景です。そして"サント=ヴィクトワール山"を描きます。

松の枝越しに広がるサント=ヴィクトワール山が描かれています。パリには

ない豊かな自然に心かきたてられた彼の感動が表現されています。彼が生涯

最も描いたのがこの山だそうです。自然にならって絵を描くことは対象をその

まま写すことではなく感覚を実現することなのだと語っています。それを

具現化しているのが"トロネの道とサント=ヴィクトワール山"です。この

山を描き初めて10年ほど経った頃の作品です。初期の頃と比べると色や形

が単純化されています。彼は目に見える風景ではなく感覚でとらえた風景を

描こうと模索していたのでした。

番組内で画家の山口晃さんがセザンヌの絵を描きうつしながら探ります。

最初に目をとめたのは道端の1本の木です。木の奥行の表現に徹底してこだわ

っているそうです。山を描こうとした時に筆が止まりました。同じ色の部分の

面がほぼ一緒ということに気が付いたそうです。向きの違いで緑、青、赤と

塗り分けられていたのでした。あらかじめ色の置き方を決めてから描いたの

だそうです。驚きですね。

そして姿は時を重ねる毎に変わっていきます。60代半ばの頃に描いた"サント

=ヴィクトワール山"はまるで抽象画のようです。絵を描いている時は何も考え

ないそうです。何故ならば色彩を見ているからだそうです。そして色彩はきまま

に折り合いを付け偶然に1枚の絵が出来るのだそうです。いやー天才の言葉ですね。

彼が晩年特に力を入れたモチーフがサント=ヴィクトワール山と裸婦です。"大

水浴"という縦横2メートルを超える大作を描きました。本来裸婦は美しく描く

ものですが彼は大まかに描き表情さえもわかりません。この絵では裸婦の美では

なく構図にこだわったのです。全てが小さな三角形で描いています。

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アート日記
# by artmark | 2012-04-28 23:30 | アート情報 | Trackback | Comments(0)
美の巨人たち「サンドロ・ボッティチェッリ」特集アート日記
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今週の美の巨人たちは、ボッティチェリの"ヴィーナスの誕生"が今日の作品

でした。この作品はイタリアフィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されて

います。縦172センチ、横278センチのテンペラ画です。大きな貝殻にのって

透き通るような肌の裸のヴィーナスが描かれています。眼はどこか遠くを見ている

ようです。左には春の音連れを告げる西風の神ゼピュロスとその妻フローラが

描かれています。頬を膨らませ風を起こしています。右には絹のローブを携えた

時を告げる神ローラが描かれています。多くの花を身にまとっていますが腰に

携えた銀盃花はヴィーナスに捧げる花です。他にもマーガレットや雛菊なども

ヴィーナスを暖かく包んでいます。

500年以上前に描かれたギリシャ神話の世界ですが、なびいている髪は

1本1本緻密に描写しています。彼は線の詩人と呼ばれました。銀筆を用いた

輪郭線で対象を鮮やかにかたどっています。その曲線の美しさの一方で身体の

バランスは少々おかしいです。波も写実的でなく、奥の風景も平面的で陰影など

ありません。それでも西洋絵画を代表する1枚となっています。

15世紀のフィレンツェは商業や文化で他を圧倒する繁栄を謳歌していました。

その中心は銀行業で財をなしたメディチ家でした。彼はそんな時代にフィレンツェ

の皮なめし職人の家に生まれ、14歳でフィリッポ・リッピの工房に入門し着実

に精緻な画力を身に着けたのでした。25歳という若さで独立。パトロンにも

信頼されて多くの宗教画を描きました。当時絵画と言えば宗教画で宗教画といえ

ばキリスト教を描くという時代でしたが、当時フィレンツェではメディチ家や

文化人を中心に古い文献を再発掘して研究する動きが起こりました。そしてギリシ

ャ神話とキリスト教はお互い補完しまう関係と解釈されるようになったのでした。

そこで彼はギリシャ神話を深く理解し、その上で彼独自の画風で描いたのでした。

ルネサンスとは復興を意味します。彼はギリシャ神話の世界を千数百年ぶりに

復興した画家だったのです。ヴィーナスはメディチ家にあった古代彫刻を参考に

したそうです。更に画家は自らの美意識に従い肉体のバランスよりも優雅な曲線を

強調しまったく新しいヴィーナスを完成させたのでした。

フィレンツェ郊外にあるカステッロ荘はかつて豪華王ロレンツォ・メディチの

従妹のロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコ・デ・メディチの別荘でした。

ここに今日の作品は飾られていたのでした。描かれてから50年後だそうで依頼主

は他の人かも知れないそうです。"プリマヴェーラ"という彼のもう1つの作品も

飾られていました。描かれているのはゼピュロスと後の妻のクロリスです。フロー

ラも傍らに描かれています。後は愛の使者のキューピットや愛欲、純潔、美の象徴

の三美神、そして真ん中の女性はヴィーナスと考えられています。この2枚は別々

の機会に依頼されたそうです。画材がキャンバスと板画で異なります。大きさも

描かれた年代も異なります。共通のするのは愛というテーマだそうです。"プリマ

ヴェーラ"は当時の別荘の持ち主の結婚の祝いとして描かれたと考えられるそう

です。

フィレンツェから北西に100キロ行ったところにあるポルトヴェネレは地中海に

面した海辺の街です。今から500年以上前に一人の美しい女性が生まれました。

名前はシモネッタで今日の作品のモデルと言われているそうです。絶世の美女と

愛人関係にあったのが豪華王ロレンツォ・メディチの弟ジュリアーノ・メディチ

でした。ジュリアーノは年下のパトロンでシモネッタは良き友人でモデルでした。

彼は彼女の美貌を好んで良く描いたそうです。ところが彼女はわずか23歳の若さ

で肺結核で亡くなってしまったのでした。2年後メディチ家の繁栄を好ましく思わ

ない勢力からジュリアーノも25歳で暗殺されてしまいます。その6年後彼は

今日の作品を描いたのでした。彼はこの絵の中で先輩画家が描いたキリスト絵画の

構図を引用しています。キリストが洗礼者ヨハネから水による洗礼を受けるという

聖書にあるテーマです。この時から神としての活動を始めるということだそうですが

それと同様に美しいシモネッタが海の水から彼女が天上のヴィーナスとして生まれ

変わるという想いで描いたのだと言われています。ポルトヴェネレとはヴィーナス

の港という意味だそうでそういうところからこの絵が生まれたのだそうです。深い

想いがあったのですね。

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アート日記
# by artmark | 2012-04-22 19:46 | アート情報 | Trackback | Comments(0)
日曜美術館「藤田傳三郎」特集アート日記
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今週の日曜美術館は、華麗なる国宝コレクションというテーマで美術コレ

クター藤田傳三郎の特集でした。

幕末に高杉晋作や木戸孝允ら維新の獅子と行動をともにし、明治になると

実業家として巨大事業を次々と立ち上げた風雲児でした。彼はその財力と

情熱を美術品に注ぎました。西洋化が進んだ明治時代、仏像をはじめとす

る伝統芸術が軽視される中収集によって国の宝を守ろうとしました。また

彼は一流の茶人でもあり死の間際まで手に入れようとした茶道具の一品

を9億円かけて手に入れるなど破格のコレクターっぷりもあります。そんな

彼について藤田美術館から紹介されました。

彼の広大な邸宅だった跡地が今公園になっているそうです。その傍に藤田

美術館があります。昭和29年に開館しましたが、傳三郎とその子孫が集

めた約5000点もの東洋美術が所蔵されています。明治44年頃に建て

られた蔵が展示室になっています。邸宅が空襲にあったのですが蔵だけ

残ったのだそうです。天井の梁には台湾産の高級ひのきが使われています。

最初に国宝"曜変天目茶碗"が紹介されました。中国の福建省で作られたも

ので800年ほど前に焼かれたものです。残っているものは全て日本にあ

るのだそうです。とても素晴らしい色合いです。釉薬と土の相性で偶然生

まれるものだそうです。まるで宇宙のようです。徳川家康が水戸徳川家に

送り近代になって藤田家に入ってきたのだそうです。

次に紹介されたのが国宝"紫式部日記絵詞"です。紫式部が書いた日記を

元にして鎌倉時代に描かれたものだそうです。日々の暮らしなどが忠実に

描かれています。藤原道長が描かれた最古の肖像画そうですね。平安時代の

貴族が肖像画が呪いの対象になるということで嫌っていたのだそうです。

その後鎌倉時代に描かれたのですが、リアリズムの動きがあり本物により

忠実に描かれています。

次に紹介されたのが国宝"仏功徳蒔絵経箱"です。平安時代中期の貴族達が

法華経の経巻を入れるための箱として使われたそうです。金や銀、すずなど

の金属が使われています。雨が表現されていて可愛らしいです。野犬が描か

れていますがこちらも可愛らしく描かれていますね。1000年近く前の

もので残っているものは少ないそうです。

藤田傳三郎は幕末後の1841年山口県萩市に生まれました。実家は地元

で有数の酒や醤油を作る商家でした。彼は二十歳の頃醤油の製造法を徹底的

に研究し改良し売上を伸ばすなど商才を発揮したのでした。その頃萩では

若き獅子たちが活躍を始めていました。すぐ近所では高杉晋作や木戸孝允が

住んでいて、彼らの欧米に負けない国を作ろうという考えに共感した彼は

商売で得たお金を提供し活動を支援したそうです。

1868年明治の世が始まりました。新政府が目指したのは富国強兵で経済

を発展させ強い軍事力を作ろうと動き始めました。彼は当時政府の中枢にいた

木戸と話し、実業経験のある者が発展に尽くさないと国の前途は危ういと

言われ実業の世界で新しい日本を作ろうと決意したのでした。そして29歳で

大阪に出て、長州藩でいらなくなった武器や弾薬を売り、その後様々な事業

を始めます。明治3年に大阪で初めての鉄橋を作りました。イギリスの技術

者を招いて作った最新式のものでした。明治10年には大阪と京都を結ぶ

最初の鉄道をヨーロッパの技術を使って作り、関西全体の鉄道網整備に力

を尽くし、明治17年には現在の南海電鉄の元になる鉄道会社を作ります。

更に明治19年に琵琶湖の水を京都にひく琵琶湖疏水の工事に着手し京都に

大量の産業用水が供給されるようになりました。これによって日本で最初の

大規模な水力発電所も設立されたのでした。30代から40代の彼は数々の

大事業で関西の作業を飛躍的に発展されたのでした。

西洋文明をいち早く導入し近代化に貢献したのですが、私生活では日本文化

をこよなく愛した人物でした。故郷の萩は長州藩主が茶の湯を愛したため

茶道が盛んでした。彼も10代からたしなんでいたそうです。また能や唄い

も小さい頃から学び大阪の自宅には能舞台を作って自ら舞っていたそうです。

中でも心底熱中したのが美術品の収集でした。事業で築いた莫大な財産を

注ぎ日本の宝とも言われる美術品を次々と手に入れました。

"桜狩蒔絵硯箱"は琳派の巨匠尾形光琳の傑作です。桜の舞い散る中馬を

進める男性が描かれています。馬の体は金属の板で衣装は金で装飾され顔は

貝殻の螺鈿で表現されています。桜の葉は金粉で、花びらは白やピンクの

貝殻で表現されています。

彼は収集した名品を収めるコンクリートの巨大な蔵を建てました。絵画に

書、陶磁器などあらゆるジャンルの美術品1万点以上をコレクションしまし

た。また集めた作品を系統的に分類し自ら目録を作るなど完璧なものにしよう

と心がけていたのでした。

明治時代に新政府は天皇を中心とした新しい国作りを進めるために神道を

国の宗教とすることを目指しました。そこで仏教を悪しき伝統とし排斥し

ようという動きが全国で起きて奈良興福寺では僧侶全員が春日大社の神官

となり国宝の五重塔が今の金額で2万円程度で売りに出されたほどでした。

浄土宗を信仰し仏教に深く帰依していた彼は寺が荒れるのを悲しみ各地の

寺に寄付をしたのだそうで、そのお返しとして寺から様々な仏教美術が

集まったのでした。そうして失われつつある日本の宝を救うことが自分の使

命を考えるようになったそうです。

明治38年に購入した重要文化財"木造地蔵菩薩立像"は快慶の傑作で元々

興福寺にあったそうです。地獄にいる人々を苦しみから救うと言われる地蔵

菩薩が表現されています。その顔には人々を戒める厳しさと母のような優し

さがたたえられています。

国宝"玄奘三蔵絵"は彼が所蔵した美術品の最高峰です。西遊記で知られる

玄奘三蔵がインドから経典を持ち帰る遥かな旅路を描く絵巻です。この絵巻

は高い技量を誇る宮廷絵師が描いたとされ興福寺では塔頭に秘宝として受け継

がれてきたものでした。そのため高価な顔料を使った見事な色彩が700年

の時を超え奇跡的に残されています。日本の鎌倉時代の絵師が想像で描いた

ため風景や中国やインドではなく日本の風景が描かれています。

故郷の萩博物館には彼からの明治33年60歳の手紙が残っています。吉田

松陰の兄である杉民治に送った手紙です。時間が出来て茶道に親しむことが

出来るようになったと語っています。仕事をおおかた息子たちにゆずり、

茶を楽しんだのだそうです。自ら集めた最高の茶道具と向き合う時間を何より

も大事にしていたそうです。藤田美術館には茶室もあります。"本手利休斗々

屋茶碗"が使われました。利休から代々茶人の手元を渡ってきた茶碗だそう

です。朝鮮半島で作られたこの茶碗は桃山時代に利休が見出し、その弟子の

古田織部、小堀遠州など天下一の茶人3人が使ってきた名品です。

晩年彼は4000点以上もの茶道具をコレクションしたそうです。本当に規

模が違いますね。

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アート日記
# by artmark | 2012-04-15 11:53 | アート情報 | Trackback | Comments(0)
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